aoko's blog

社会に出て困難を感じる人へ(社会人・事務・貿易事務スキル・生きる術?など)

日本の社会にいるようでいない人たち◎募金を「集金」されて困る子ども

 

万引き家族のおかげで、最近はうっすらとその存在が認識されてきました。

日本の社会にいるようでいない人たち。

実際には「存在している」ので「いないようでいる」が正確ですが、やはり私は「いるようでいない」だと感じます。

貧困家庭というのはそういうものだと思います。発言する能力も持たず、そもそも発言しても声を届ける力も持っておらず、いないものとして取り扱われています。

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小学校低学年の頃に行われたボランティアについて学ぶ授業だったと思います。

 

「今日はボランティアについて学びました、さぁ、あなたたちも募金をしましょう。明日お金を持ってきてください。」

 

学校で募金箱が回され、持ってきたお金を各々いれるのです。

 

もしも子どもを傷つける意図がないのであれば、少しでも健やかにいてほしいと願ってくださるのなら、このような形で「集金」することで傷つく子どもがいるという可能性を知った方がいいです。

 

私の父親は別の記事で書いていますように、まともに働かずお酒を飲んで麻雀をしている人です。気が向くと時々働きます。あとは妻の貯金と自分の実家、親戚、妻の実家、親戚、友人、知人、あらゆるところからお金を借りて、踏み倒して生活していたのです。うちにはお金がないのです。

 

当時の私は、学校でみんなと同じようにしていなければ、とにかくお金を持っていかなければ、そういう思いに駆られて、泣いて父親にお金がほしいとお願いしていました。

泣いて怒られて、泣いて怒られて、泣いて怒られて、お願いして、ありがたいことにお金を持たせてもらいました。

 

父親は「ボランティアは気持ちでするものだから、集金なんておかしいだろうが」と大変怒っていました。

お金を出したくない気持ちがあるから大きな怒りになるのでしょうが、言っていることは間違っていないと思うのです。

 

お金のない人間に無理矢理お金を出させることがボランティアだとは思えません。

お金のない家庭に生まれた子どもを傷つけることがボランティアだとは思えません。

このことが最近ようやく私の言葉として出てきました。

 

一方で、うちのような家庭ではボランティア活動やそういった考え方に触れる機会というのは絶対にないでしょうから、学校で教えてもらえることのありがたみもよく理解できるようになりました。

だからこそ、集金という行動に出てしまったことが不思議ですし、とても残念に思います。

 

今の小学校がどのようになっているかわかりませんが、このような個別の家庭事情に配慮があっても良かったのではと思います。

学校における集金は、本当にボランティア精神を伝える役割を担うのか、この点について私は「正しいこと」を言えないですし、言葉が足りないのですが、感覚としては違うように思います。

 

必死になってお金をもらう過程で、子どもの心は傷ついています。

集金がなければ、私は泣いて怒られる必要もなかったし、傷つかなかったのではないかなぁと思います。

 

必死になってお金をもらうおうとした私の気持ちについて書いておきますと、みんなと同じ、普通でいること、が私の中で最も重要だったからです。

大人の理屈では、「いじめられたくなかったんだろうな」という発想になるかもしれませんが、当時の私は単純にそういう行動基準しか持たなかったからだったかなぁと思います。

とにかく「人の真似をする」とかですね。発達障害者の生き方としてはよくあると思います。そして、発達障害者もそれなりに心が傷つきます。

 

何も言えない子どもだった私の代わりに、今さら私が言ってみるのです。

33歳くらいの私が今さら、過去のことをグチグチ言っても仕方ないことはわかっていますが、最近思い出して「あぁ、あれは嫌だったなぁ」と思い、だんたん自分が悲しかったのだと思うようになりました。

 

二十数年越しに当時の気持ちが少し言葉になってきたので書きました。

同じような経験をされた方がいらっしゃれば、辛いよね、と共感します。気持ちとしては一緒に泣きたいです。

でも、私たちはもう大人ですからね。

過去のことは少しずつ折り合いをつけて生きて行くほうが心は軽いでしょうから、なるべくそうしたいですね。

 

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