コジローというのは私の父です。
社会で真っ当に生きることが困難な人の話です。オチとか提言とか何もない上に愉快でない話です。
両親は私が十代の頃に離婚し、それからは母子家庭です。
たしか2年程前に遠目でコジローの姿を見たときは白髪頭になっていました。 その更に6、7年前に久々に顔を合わせた時には歯が抜けていることが目立ちました。
最近になってどう考えても何らかの障害を抱えているのだろうなということに気付きました。人生のどの段階でも支援を受ける機会がなかったことがとても残念です。
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第一子が生まれるとき、コジローはタバコを辞めました。
子どもの頃の自宅に灰皿はありましたが、コジローがタバコを吸う姿は見たことがありません。(1日中家にいても吸っていなかったので、ほぼほぼ禁煙できていたのではないかなと思います。)
私も以前は喫煙者だったのでわかりますが、特にコジローのような衝動的で欲に負けやすい人がよくぞ禁煙できたなぁと思います。
今思えばコジローが唯一、有言実行したことなのですが、残念ながらそのことを「よくやったね」と褒める人は周囲にいなかったのではないかと思います。
その時、コジローは35歳前後でした。
子どもを迎えることに喜びを感じていたような様子が窺える一方で、怒りを抑えられないコジローは妊娠中の妻を殴ることもありました。
出産の費用も自力で工面することができませんでした。
そんなことがあっても、ようやく第一子と対面した写真では子どもを愛おしそうに抱いている姿が残っています。
第一子というのは私です。
彼は彼なりに子どもの幸せを願わないのでもなかったものの、それを実現する手段を持たなかったのだろうなと今は思います。
私が算数の宿題をしているときに「分数だけはやっておいた方がいいぞ」とか「算数はやっておけ」ということを言っていました。
コジローは小学生の算数を理解していませんでした。
私自身の発達障害を知った折に学習障害(LD)というものを知り、コジローが該当するのではないかと気付きました。
彼はもうじき70歳が見えてきます。
私の知る限り、コジローはすぐにカッとなり手を出します。仕事も何も継続的に続けることができません。(これはADHDのように思えます。)
一方でとてもプライドが高いのですが、今思えば傷ついてばかりいる自分を過剰に守ろうする姿に見えなくもないのです。
コジローの親族の話も聞いていますが、とても彼の特性に理解の深い家庭とは言い難いです。勉強はできない、すぐに暴力に訴える、落ち着きのない子どもとして育ち、周囲もおそらく本人自身も落ちこぼれだと思い、そのまま大人になったのだろうということは想像に難くありません。
第一子のために禁煙をし、彼なりに父親であろうとするもことごとく失敗し、今ではその第一子とは縁を切っています。
私の兄弟は繋がりを持ち続けてくれていますが、親とは思っていません。兄弟は優しい気質なのでコジローを気の毒だと思って話半分で相手をしているようです。
現在のコジローはやはり定職に就けず生活保護を受けているそうです。彼の人生は彼のどうにもならない衝動によって突き動かされ、こらえ性のなさに振り回され、彼自身では妥当な選択というものを何一つできていなかったのように思えてなりません。
(話を簡略化し過ぎているとは思いますが、当たらずとも遠からずというところで私にはこのように映ります。)
誰が望んでこのような生き方をしますか。
第一子を迎えたとき、その子と縁を切ることになろうとは想像もしていなかったはずです。
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コジローの生活保護について
コジローが生活保護を受けることについて世間の方の税金が使われることに何の抵抗も感じないわけではありません。しかしながら、コジローの取った行動の責任を子どもである私たちが背負い続けるというのは私は耐えられません。
彼を気の毒に思う一方で、彼の言動に私を含め家族は少なからず傷を受けています。子どもには何の落ち度もないこと私は私自身に言い聞かせながらようやく生きていますので「親なんだから」とか「子どもの責任」という指摘があったとしても、私にはどうしても受け入れられません。
あまりにも酷ですし、親の責任を子どもが負う必要がないことを、少なくとも日本のような先進国で成熟した社会においては広く理解されているのかな思っています。もちろん世界中でそうあって欲しいと願っています。